令和3年7月

ああ全くたれがかしこく たれが賢くないかはわかりません
ただどこまでも十力じゅうりきの作用は不思議です


宮澤賢治『虔十公園林』 

これは、「虔十けんじゅう公園林」という宮澤賢治の短編童話の後半、田舎の村で育ち今はアメ リカで暮らす若い研究者が、通った小学校で異国の話をした後、校長と交わす会話の中の一節です。
虔十というのは、今でいう自閉スペクトラム症の若者です。私は、彼は賢治自身の分身なのだと思っています。なぜなら「雨ニモマケズ」で賢治がなりたいと願った「モノ」の姿が、この虔十と重なるからです。農家の次男坊の虔十は、実直によく働きます。ある日、杉の苗七百本を小学校に隣接する荒地に植えたいと家族に申し出ます。
その何の利益にもならない提案を家族は快く引き受け、彼は慈しむように苗を育てました。杉林はいつしか子どもたちの格好の遊び場となります。やがて流行りの病で虔十は亡くなります。時が過ぎ、鉄道が敷かれ、村は物質的に豊かになりますが、家族はこの林を虔十に代わって守り続け、まるで学校の運動場の一部のようになり美しい公園となったのでした。
そして、この研究者は自分の子ども時代を振り返り、表題のように語りました。彼の提案で、公園は「虔十公園林」と名づけられ、林の前には青い橄か んらんがん欖岩の碑が立ちました。
十力とは、如来あるいは菩薩が人を救うための力をいいます。
(社会福祉学部教授 武内 一)

「懺悔偈」
(画:別科修了生 菊田水月)(製作協力:京都教区浄土宗青年会)

懴悔偈さんげげ
我昔所造諸悪業がしゃくしょぞうしょあくごう     わ れむかしよりつくれるところもろもろの悪業あくごうは、
皆由無始貪瞋痴かいゆむしとんじんち      みな無始むし貪瞋痴とんじんちる、
従身語意之所生じゅうしんごいししょしょう     身語意しんごいよりしょうずる ところなり。
一切我今皆懴悔いっさいがこんかいさんげ     一切我いっさいわれ 今皆懴悔いっさいわいまみなさんげしたてまつる。
【この懴悔偈さんげげの出典は、『大方広仏華厳経(四十華厳)』「普賢行願品ふげんぎょうがんぼん」にあります。道場にお招きした阿弥陀仏をはじめ、みほとけや諸菩薩のみまえで、自身が犯してきた過去及び現在の一切の悪業あくごう(悪い行い)をい あらた
め 懴悔さんげするのです。 とんじん三毒煩悩さんどくぼんのうと云われ、貪欲とんよく(むさぼり)・瞋恚しんに(怒り)・愚痴ぐち(ものの道理に暗い)のことで、それらはしん三業さんごうから生じたものであります。】
(解説  宗門後継者養成道場長 稲岡 誓純)

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