令和3年11月
阿弥陀仏に そむる心の 色にいでば
秋の梢の たぐひならまし
法然上人『勅修御伝』
このお歌は、法然上人の伝記『勅修御伝』に、秋のお歌として載せられています。現代語に訳したら「(念仏を称える人の)心が阿弥陀仏に染まっていく様子が色として表れることがあるならば、まるで秋の梢が紅棄で染まっていくようなものだろう」となります。日ごとに紅葉していく様子をご覧になり、その様子を、念仏を称える人の信心が深まる姿と重ね合わせてお詠みになったのでしょう。
「〇〇をしなさい」と教えられて、すぐに心を切り替え、行動することができるでしょうか。思うように行かない人も多いのではないでしょうか。
法然上人は、木の葉がすぐに緑から紅に変化しないように、初めは信心が揺らいでいたとしても、念仏を称え続けることで、徐々に心が阿弥陀仏の方に向き、阿弥陀仏のことで心がいっぱいになりますよ、と仰っているのです。
「まずはやってみる」ことが、時には必要なのかも知れません。そうすれば徐々に紅葉していくように、心も染まっていくのでしょう。
(仏教学部教授 曽和義宏)
「摂益文」
(画:別科修了生 菊田水月)(製作協力:京都教区浄土宗青年会)
摂益文
光明偏照 十方世界 (如来の)光明は徧く十方世界を照らして、
念仏衆生 摂取不捨 念仏の衆生を摂取して捨てたまわず。
【この偈文は「浄土三部経」の「観無量寿経」第九観の「真身観文」にあります。阿弥陀仏は無量寿仏・無量光仏とも云われ、無量の命と無量の光を備えたみ仏(如来)です。前半の偈文は「常光」と解釈し、阿弥陀仏の光明は徧く十方の泄界を照らして下さるのです。後半の偈文は「神通光」と解釈し、念仏を称える者を摂収して捨てることはしないと云うのです。法然上人はこの「摂益文」より「月影のいたらぬさとは なけれどもながむる人の こころにぞすむ」(浄土宗宗歌)を詠まれたのです。】
(解説 宗門後継者養成道場長 稲岡 誓純)