令和2年12月
すべて諸々の煩脳の起る事は源
貪瞋を母として出生するなり
法然上人『七箇条起請文』
「煩悩ーという言葉自体は、仏教語の中でも比較的よく耳にする言葉です。大晦日に撞く除夜の鐘の数が一〇八回なのは、一 〇八 の煩悩を取り除くためだ、などと説明されます。煩悩とは、我々の心に付着して容易に無くすことができない「汚れーです。普段はあまり表には現れず、 心の奥に潜伏しており、何かの拍子に表面化するものとされています
煩悩の分類方法の一つとして、心情的なものと知的なものに分ける方法があります。知的なものとは、真理に対する迷い・無知 であって、正しい理論を聞いてよく理解すれば取り除くことがで きます
問題は心情的な方で、こちらの代表が「貪ーすなわち、むさばり・欲望と、「瞋」すなわち、嫌悪・憎悪です。誰しも好きではないものは見たくな いし、避けたいものです。しかし全てが自分にとって好ましいものだけということはありえません。ありえないのに、欲望を剥き出して「これが欲しい、あれはいらない」と自己中心的に考え、行動することが煩悩を生みだしているのです。
一年を振り返る季節です。この一年の自分の行動を振り返ってみては如何でしょうか。
(仏教学部教授 曽和 義宏)
「どこにいても」
(画:別科修了生 菊田水月)
「ドコトテ 御手ノ真中 ナル」
柳宗悦『心偈』より
どこにいても、どんな時でも、私達は阿弥陀様の御手の真ん中にいます。決して、隅っこということはありません。私達が今いるこの個所が、佛の御手のど真ん中なのです。
この世には苦しみが沢山あります。でも、どんなに辛いときでも、どんなに悲しい時でも、どんなに苦しい時でも、たとえ孤独を感じていても、私達はいつも阿弥陀様に抱かれています。阿弥陀様のぬくもりを心と身体で感じながら、御手の真ん中にいる自分自身を信じて、精一杯命の花を咲かせて生きていきたいものです。
菊田水月