令和4年6月
雨の日も必要な時がある
人は順風満帆で充実した人生を望む。 しかし、そのように生を全うできる人は いない。人は必す失敗する。それにもかかわらず幸せだと感じる人と不幸だと感じる人がいる。なぜなのだろう。それはおそらく「雨の日」をどのように考えるのかによるのたろう。
しばらく乾燥していたが雨のお陰で湿気があって喉にもよい日だ 、と考える。そして、今週、雨がなかったら畑の芋がダメになるところだった 。雨でよかった、と思う。
なぜこのように「雨の日」を良いものとし、さらには必要な時もある、と考えられるようになるのだろうか。おそらくそれは経験の豊富さであろう。雨のお陰で喉の調子がよくなった、という経験や雨が降らず畑の芋がダメになった、という経験があるからそのように考えるのである。
いろいろな経験のある人は「雨の日」も必要だ、と考えるようになる。そして、それはより平穏で充実した人生を送れる唯一の方法なのだろう。なせなら人には良いことも悪い、と思われることも必す起きるからである。
(歴史学部教授 麓 慎一)
『法然上人の絵物語』第一巻
(画:別科修了生 菊田水月)
第三段 命名
生れた子供は呼び名を勢至丸と言いました。健やかに成長されて、竹馬にまたがって遊ぶ頃にはすでに聡明であり、他の子供たちとは違ってまるで大人のような少年でありました。勢至丸少年はことあるごとに西の壁に向かって静かに座るという 癖がありました。これは天台大師智顗の幼い頃のお姿とよく似ておられるそうです。
梅の花の咲くころ、長閑で平和な日々が続いておりました。
菊田水月